宮崎は6月6日に梅雨入りしました。今年も沢山降るのでしょうか。
梅雨入りらしく、初日は結構な雨が降りましたが、今日はうって変わって梅雨の間の晴れ日和。
こうして雨と晴れを繰り返しながら、夏に一歩ずつ近づいていくのでしょうね。

さて、2月から始めた「海外留学 忘れられない講師経験」シリーズ、相変わらずのんびり屋の私、既に6月に突入してしまいました。。私の人生初の講師経験、そして教える事、人と触れ合い通じ合うことの原動力ともなったこの経験、夏が来る前にきちんと締めくくりたいと思い、今日は最終章を書いてみたいと思います。

カリフォルニア時代にアメリカの子供達から色んな気づきを与えられた
「海外留学 忘れられない講師経験 Part 1」はこちら
「海外留学 忘れられない講師経験 Part 2」はこちら

カリフォルニア州サンノゼの公立小学校でふとした事から始まった放課後課外授業のアートティーチャーというお仕事。
12人のアメリカンキッズ達と共に笑ったり、時には叱ったり、彼らの日常の話しを聞いたりしながら過ごしたクラスも、気が付けば3か月が経とうとしていました。
そう、この課外授業は3か月コースになっていて、それは彼らとのお別れを意味する事でもありました。

私自身の話しになってしまいますが、この時期は大学卒業を間近に控えていました。寝る時間を削って卒業課題やアルバイトに追われる毎日...
そして私にとって人生の分岐点に差し掛かっている時期でもありました。

アメリカでの大学生活は決して輝かしい事や楽しい毎日ばかりではありませんでした。向こうの大学は留学生だからと特別扱いをしないのが普通。クラスに入れば皆対等です。
イングリッシュネイティブスピーカーである彼らに追いつく為にも、彼らの倍以上の時間を掛けて勉強しなければ理解できない事や、それだけ努力しても認められず悔しい思いをした事なども沢山経験しました。
普段の生活においても、英語で上手く表現できない事が、そのままあたかも自分の能力や評価や人格までも否定されるような精神的に辛い扱いも受けたこともありました。(もちろん、そういった人ばかりではありませんよ!それ以上に素晴らしい人達にも沢山、たくさん出会いました。)
これが日本語だったら、もっと自由に、もっと正確に自分の伝えたい事が言えるのに。。。と何度歯がゆい思いをしたことでしょうか。
けれど、それらの経験全てが私自身を強く成長させてくれました。

その一方で、日本にいる家族とのズレなども感じるようになっていきました。アメリカでの生活が長くなればなるほど、ここでの悩みや苦い経験を電話で話してもどうしても伝わりきれないものや、時差や感覚や文化のズレなどから、色々な問題や悩みも最終的には1人で決断、解決していく事が増えていきました。
家族にとってはもしかしたらそれが寂しかったのかもしれません。そしてきっと日本の家族には私がどんどんアメリカナイズされていくように映っていたのかもしれません。

卒業を間近に控えた私は、この先自分はどこの国で、何をしていくのかの分かれ道に立ってるようでした。
アメリカにも日本にも自分の立ち位置が定まっていないような感覚。。。漠然とした孤独感や不安感が襲ってくることもありました。

そんな中、訪れた現地公立小学校でのアート課外授業の講師というお仕事。
正直、毎回学校に行く前は気力も体力も残っていないくらいにヘトヘトに疲れていて、「しんどい。教えられない。」と思っていても、実際に学校に行き子供達と一緒に過ごした後は、必ず元気で笑顔になる自分がいました。
あれだけ疲れていたのに、教室を出る頃には清々しい気持ちにさえなっている自分がいたのです。
私は、アート講師として派遣されていたけれど、私の方が子供達から色々なものを与えられていました。

初日に私のおかしな英語で笑われてスタートしたクラスも、3か月後には12人それぞれの個性が輝くお茶目で元気でsweetな子供達がそこにいました。
12人中唯一男子のおっとりマイケル、グループで一番年長でしっかり者のエレン、途中、ビンタ事件を起こした5歳と6歳のおしゃべりおしゃまガールズ、、、などなど、私のようなクセのある間違いだらけの英語を話すアートの先生に12人が最後までついてきてくれました。もう、それだけで感謝です。

そしてレッスン最終日。

「今日でみんなとお別れかー。」

と考えながらクラスに入ると、黒板の至る所にびっしりと

「WE LOVE YOU, Miho!」

のメッセージと数えきれないくらいの♥ハートマーク♥が!
そしてみんなからのありがとうのハグ。。。
さすが感情の表現がストレートなアメリカ人たち。
思いがけない感情のプレゼントに驚きと喜びが隠せませんでした。

「あー、お互いの気持ちは一緒だったんだー。ちゃんと伝わってたんだ。」

とジーンと胸が熱くなりました。

例え正しい英語が話せなくったって、少しくらい間違えていたって、私が彼らに伝えたい事、私の出来る限りのベストで毎回伝えていました。
そして子供達はそれらのメッセージをちゃんと全て受け取ってくれていたのです。

最後のレッスンが終わった後は、一番年上のエレンが率先してみんなに私の片付けを手伝おうと提案し、クラス全員で一緒にお片付けをしました。
エレンは当時小学4年生で、クラスでは一番年上。
私が良く「エレンは私の素晴らしいアシスタントだね。いつもありがとう。」と言っていたのを嬉しそうにちょっと誇らしげにしていました。
なので、「私はMihoのアシスタントだもん!だから手伝うの。」と言いながらテキパキと動いてくれました。
彼女は頼られているのが嬉しかったのかもしれません。
もしくは不慣れな私を見て、彼女なりに色々サポートしてくれようとしていたのかもしれません。
5歳と6歳のガールズまで画材道具を運ぶのを手伝ってくれました。
何が起きているのか良く分からないくらい、ミラクルのような時間でした。

なぜThey loved me. だったのか正直その理由は分かりません。
ただ分かるのは、私も必死で毎回ベストを尽くしたことでした。
そしてそのベストとは、毎回の生徒達との時間を、疲れも日頃の不安も忘れるくらいフォーカスし一緒に楽しんだことでした。
子供達の前では自分がどう周りに移っているのか、評価されているのかを考える必要はありませんでした。

正直、私は「先生」という言葉を使われるのが苦手です。
どこか生徒との線引きをさせるような言葉だからです。
なので、いつまで経ってもこの言葉が私に馴染んでくれません。笑
アメリカでは先生と生徒、会社だと上司と部下の間柄でも名前(first name)で呼び合ったりします。
あの距離感の近さが好きでした。
名前で呼び合うだけで、心のバリヤーが外れるというか。

先生は一方通行で指導するだけの存在ではないと私は思っています。
知識を生徒に与えるのは勿論大切な仕事ですが、生徒と共有する時間や、生徒から刺激を貰ったり教えられることも沢山あります。
少なくとも私自身はそう感じています。

あれから15年の月日が流れました。

あの時の子供達はみんな20歳を超えていることになります。
メインティーチャーとしてほんの短い3か月を共にしたあの時間、もしかしたら私の事もレッスンの事も、あの子達はもう覚えていないかもしれません。
けれど、私にとっては一生のかけがえのないギフトを沢山貰った気持ちです。あの時、言葉の不自由さを越えてハートとハートで繋がった経験は、更に私に英語に磨きをかけるモチベーションにも繋がり、そして本当の意味でのコミュニケーションの素晴らしさを教えてくれた経験でもありました。

​あの時のあの子達に会えるのなら、今はこうして日本で色んな人に英語を教えているよ、と伝えたいです。
​そしてあの時、色んなチャレンジや気づきや素晴らしさを教えてくれてありがとうと言いたいです。